そもそも何でこうなった?
1870年代〜1914年 ― 戦争の「原因」を理解しよう
帝国主義って何? ― 強い国が弱い国を支配する時代
19世紀後半、ヨーロッパの国々は産業革命で工場がたくさんできて、モノを大量に作れるようになった。
でも、作ったモノを売る場所(市場)と、モノを作るための材料(資源)が国内だけじゃ足りない。
じゃあどうする? → アジアやアフリカの弱い国を植民地にして、そこから資源をもらい、そこにモノを売ろう!
こうやって強い国が弱い国を支配して利益を得るやり方を「帝国主義」という。
👉 帝国主義 = 強い国が弱い国を植民地にして、資源と市場を独り占めすること。イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカなどの「列強」がこれをやっていた。
列強のぶつかり合い ― イギリス vs ドイツ
植民地を取り合うから、当然ケンカになる。特にヤバかったのがイギリスとドイツの対立。
イギリスは3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタを結ぶ)で世界中に植民地を持つ大帝国。
ドイツは3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バグダードを結ぶ)で後から猛追。「俺たちにも植民地よこせ!」と積極的に海外進出。
さらにドイツは海軍を増強し始めて、海の覇者イギリスと建艦競争(軍艦の作り合い)に突入。
👉 後発のドイツが急成長して「世界のトップ」イギリスに挑戦 → 両国の関係がどんどん悪化。これが戦争の大きな背景。
ヨーロッパが2つに割れた ― 三国同盟 vs 三国協商
対立が深まる中、ヨーロッパの国々は「味方を増やさなきゃ!」と同盟を組み始めた。

👉 ヨーロッパが2つの軍事グループに分裂。どちらかが戦争を始めたら、同盟国が芋づる式に参戦する超危険な状態。「全員が爆弾を持ったまま満員電車に乗ってる」ようなもの。
バルカン半島 ―「ヨーロッパの火薬庫」
この2つのグループが特にぶつかったのがバルカン半島(今のギリシャ・セルビア・ブルガリアあたり)。
もともとこの地域を支配していたオスマン帝国(トルコ)が弱くなって、「次は誰がここを支配する?」と列強が狙い始めた。
ロシアは「スラブ民族の仲間を守る!」と南下を狙い、オーストリアは「東に領土を広げたい!」と対抗。さらにバルカン半島の小さな国同士も民族の違いでケンカしまくり。
👉 列強の対立 + 民族の対立 が重なって、バルカン半島はいつ爆発してもおかしくない「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。
サラエボ事件 ― たった一発の銃弾が世界を変えた(1914年6月28日)
ついに火薬庫が爆発する。
オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、ボスニア(バルカン半島)の都市サラエボを訪問中に、セルビア人の青年に暗殺された。
オーストリアは激怒。「セルビアが裏で手を引いてるに違いない!」とセルビアに宣戦布告。
👉 たった一発の銃弾が、同盟関係の連鎖反応を引き起こし、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦争の引き金になった。
同じ頃の日本 ― 大正デモクラシーの始まり(1912年)
サラエボ事件の2年前、日本でも大きな変化が起きていた。
1912年(大正元年)、藩閥(薩摩・長州出身の政治家グループ)の桂太郎が3度目の首相に就任。これに対して「いつまで藩閥が政治を独占してるんだ!憲法に基づいた政治をしろ!」と、議員・新聞・国民が声を上げた。
これが第一次護憲運動。民衆が国会議事堂を取り囲み、桂内閣はわずか53日で退陣に追い込まれた。
👉 この運動をきっかけに、大正時代を通じて民主主義の風潮が高まっていく。これを「大正デモクラシー」という。世界がきな臭くなる中、日本では民主主義の芽が育ち始めていた。

戦争が始まった!
1914年〜1917年 ― 世界を巻き込む泥沼の戦争
開戦 ― 同盟の連鎖反応でヨーロッパ全体が戦争に(1914年7〜8月)
サラエボ事件のあと、同盟関係が次々と発動。わずか1週間で主要国が全部参戦した。
※イタリアは三国同盟の一員だったのに、戦争が始まると裏切って連合国側に寝返った。
👉 みんな「クリスマスまでには帰れるさ」と思ってたけど、現実は真逆。4年以上続く泥沼の大戦争に突入。
塹壕戦 ― 地獄のにらみ合い
短期決戦に失敗した両軍は、地面に塹壕(ざんごう)という溝を掘って、約700kmにわたってにらみ合いを続けた。
機関銃と鉄条網が支配する戦場では、攻撃しても全然前に進めない。数百メートルの土地を奪い合うために何万人もの命が消えていく。
新兵器の登場 ― 殺し方の「進化」
膠着状態を打破するため、次々と新兵器が投入された。
👉 科学技術が戦争に使われ、兵士だけでなく一般市民も巻き込む「総力戦」に。女性も工場で兵器づくりに動員され、植民地の人々も兵士として戦場に送られた。戦死者は約850万人。
日本の参戦と二十一カ条の要求(1914〜1915年)
日本は日英同盟を理由に連合国側で参戦(1914年)。中国にあるドイツの拠点(山東半島の青島など)や太平洋のドイツ領南洋諸島を占領した。
そして、ヨーロッパの列強が戦争で手一杯なのをいいことに、中国に対して二十一カ条の要求を突きつけた(1915年)。
👉 この露骨な要求は中国で激しい反日感情を生み、のちの五・四運動の直接的な原因になる。

戦争の終わりと世界の変化
1917年〜1919年 ― 2つの大事件が戦争を終わらせた
アメリカの参戦(1917年4月)
ドイツは戦況を打開するため、中立国の船も含めて手当たり次第に攻撃する「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの商船にも被害が続出した。
アメリカのウィルソン大統領が「世界の民主主義を守るための戦いだ!」として参戦を決意。
👉 アメリカの圧倒的な工業力と兵力が連合国側に加わり、戦局が一気に連合国有利に傾いた。
ロシア革命 ― 世界初の社会主義国の誕生(1917年)
一方、ロシアでは戦争による食糧難と大量の犠牲者に国民の不満が爆発。
レーニンの指導のもと革命が起き、世界初の社会主義政権が誕生した。
新しいロシア政府はドイツと単独で講和し、戦争から離脱。のちにソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立(1922年)。
👉 ロシア革命は世界に衝撃を与え、各国で社会主義運動が活発化。日本でも労働運動・農民運動が盛んになるきっかけに。そして、このロシア革命が日本の「米騒動」につながっていく(後述)。
ドイツの敗北と休戦(1918年11月)
アメリカ参戦で追い詰められたドイツでは、水兵の反乱がドイツ全土に広がり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位。ドイツは共和国になった。
1918年11月11日、4年以上にわたった大戦の砲火がついに止んだ。
📝 高校範囲ざっくり
「軍は負けていなかったのに、国内の革命分子に裏切られた」という「背後からの一突き」伝説が生まれる。これが後のナチス・ヒトラーの台頭と第二次世界大戦の伏線に。

戦後の世界
1919年〜 ― 平和を目指したけど、次の戦争の種もまいた

パリ講和会議とベルサイユ条約 ― まず「誰が悪いんだ?」(1919年)
戦争が終わったら、まずやることは一つ。「誰が悪いんだ?」を決める会議。
パリ講和会議が開かれ、アメリカのウィルソン大統領が「民族自決」(民族のことは民族自身で決めるべき)を提唱。
そして連合国とドイツの間でベルサイユ条約が結ばれた。内容はドイツ潰しと言っていいレベル。
🔨 ドイツへの罰(ベルサイユ条約の内容)
・ドイツの植民地を全部没収、領土も縮小
・軍備を大幅に制限(軍隊の人数も武器も制限)
・巨額の賠償金を課す(天文学的な金額)
👉 この条約はドイツ国民に強烈な屈辱感と復讐心を植え付けた。賠償金を払うために紙幣を刷りすぎて極端なインフレが発生。この不満が、後にヒトラーとナチスが支持を集める最大の要因となり、わずか20年後の第二次世界大戦へとつながっていく。
民族運動の爆発 ― パリ講和会議の内容を受けて(1919年)
パリ講和会議で「民族自決」が唱えられ、ポーランドなど東ヨーロッパの国々が独立。でも、アジア・アフリカの植民地には適用されなかった。
「え、俺たちは?」と怒った人々が、講和会議の結果を受けてすぐに独立運動を起こす。
🔗 パリ講和会議からの連鎖
👉 「民族自決」はヨーロッパには適用されたのに、アジア・アフリカには適用されなかった。パリ講和会議の結果が、各地の民族独立運動を一気に爆発させた。
国際連盟の設立 ― 二度と戦争を起こさないために(1920年)
ウィルソン大統領の提唱で、世界初の国際平和維持機構として設立。本部はスイスのジュネーブ。
⚠️ でも問題だらけだった
・アメリカが不参加:提唱した本人の国なのに、議会の反対でまさかの不参加
・ドイツ・ソ連が除外:敗戦国と社会主義国は最初は入れてもらえず
・軍事力がない:「やめなさい!」と言うだけで、違反国を止める力がなかった
👉 結局、国際連盟は満州事変やエチオピア侵攻など、その後の侵略行為を止めることができず、無力さを露呈する。
ワシントン会議 ― 今度は日本潰し?(1921〜1922年)
ドイツを潰した次は、アジアで勢力を伸ばしすぎた日本が標的に。アメリカの呼びかけで軍縮と国際協調を目指す会議が開催された。
📋 ワシントン会議の決定事項
・海軍の軍備を縮小(日本の軍艦保有量を制限)
・太平洋地域の現状維持
・中国の独立と領土の保全
・日本は山東省のドイツ権益を中国に返還
・日英同盟が廃止される
👉 戦後処理の流れ:まずドイツを潰す(ベルサイユ条約)→ 次に日本の拡大を抑える(ワシントン会議)→ 国際協調の時代へ。
民主主義の広がり(世界の動き)
👉 世界経済の中心がヨーロッパからアメリカに移った。

大正時代の日本
1912年〜1925年 ― 民主主義と社会運動の時代
ここからは日本国内の話。第一次世界大戦と並行して、日本では「大正デモクラシー」という民主主義の動きが広がっていった。世界の出来事と日本の出来事がどうつながるか、流れで見ていこう。
大正デモクラシーの始まり ― 第一次護憲運動(1912年)
1912年(大正元年)、藩閥(薩摩・長州出身の政治家グループ)の桂太郎が3度目の首相に就任。
これに対して「いつまで藩閥が政治を独占してるんだ!憲法に基づいた政治をしろ!」と、議員・新聞・国民が声を上げた。これが第一次護憲運動。
民衆が国会議事堂を取り囲み、桂内閣はわずか53日で退陣に追い込まれた。
👉 この運動をきっかけに、大正時代を通じて民主主義の風潮が高まっていく。これを「大正デモクラシー」という。
大戦景気 ― 戦争で日本が大儲け(1914〜1918年)
第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパの国々は戦争で忙しくてアジアにモノを売れなくなった。
その穴を日本製品が埋める → 輸出が急増!
・輸出が輸入を上回る(貿易黒字)
・国内の重化学工業が発展
・工業生産額が農業生産額を上回るようになった
・にわかに大金持ちになった「成金」が登場
👉 この好景気を「大戦景気」という。ただし、戦争が終わるとヨーロッパが市場に戻ってきて、日本は一気に不景気に陥る。
ロシア革命 → シベリア出兵 → 米騒動 → 原敬内閣(1917〜1918年)
ここが超重要な因果の流れ。一つずつ見ていこう。
🔗 因果の連鎖(これ全部つながってる!)
① ロシア革命(1917年) → 社会主義政権が誕生。列強は「社会主義が広がったらヤバい!」と警戒。
② シベリア出兵 → 日本はロシア革命の影響を防ぐため、シベリアに軍隊を送った。
③ 米の買い占め → 「シベリアに大量の兵士を送る=米がたくさん必要になる」と見込んだ商人が米を買い占め → 米の値段が大幅に上昇。
④ 米騒動(1918年) → 富山県の漁村の主婦たちが米の安売りを求める運動を起こした。新聞で報道されると全国に広がり、各地で米屋や大商店に民衆がおしかけた。
⑤ 寺内内閣退陣 → 米騒動を収拾できなかった藩閥の寺内正毅内閣が退陣に追い込まれた。
⑥ 原敬内閣の誕生(1918年) → 衆議院の第一党・立憲政友会の総裁原敬が首相に。
👉 大部分の大臣を立憲政友会の党員が占めていたため、「最初の本格的な政党内閣」と呼ばれる。ただし、原敬は普通選挙は「時期尚早」として実現させなかった。
関東大震災(1923年)
1923年9月1日、関東大震災が発生。死者・行方不明者が約11万人に達した。
混乱の中で、朝鮮人や中国人、社会主義者に対するデマが広まり、多くの人が殺される事件も起きた。
普通選挙法と治安維持法 ― アメとムチ(1925年)
原敬内閣の後、ふたたび非政党内閣が続いたが、政党勢力は第二次護憲運動を起こし、憲政会の加藤高明内閣が成立。
👉 普通選挙法で選挙権を広げる一方、治安維持法で思想を取りしまる「アメとムチ」のセット。治安維持法はその後、社会運動への弾圧に広く使われることになる。
加藤内閣以後、1932年の五・一五事件まで、二大政党の党首が交互に内閣を組織する慣例が続いた。これを「憲政の常道」という。
社会運動の広がり
大正デモクラシーの風潮の中で、さまざまな立場の人々が権利を主張し始めた。
👉 大正デモクラシーの時代は、さまざまな立場の人々が自分たちの権利を主張し始めた時代。しかし、治安維持法の制定により、その後は制約を受けるようになっていく。

大正時代の文化
大衆文化の広がり
1925年にラジオ放送が始まり、またたく間に全国に普及。新聞も100万部をこえるものが現れ、文化の大衆化が進んだ。
都市では和洋折衷の文化住宅が流行し、カレーライス・トンカツ・コロッケなどの洋食が広まった。バスガールや電話交換手など、女性の社会進出も進んだ。
文学・学問

まとめ:因果でつなぐ歴史ドミノ
世界の流れ
日本の流れ
世界と日本のつながり

おまけ:面白い話
🎄 クリスマス休戦(1914年)
西部戦線の最前線で、イギリス兵とドイツ兵がクリスマスの日に自然発生的に戦闘を停止。ドイツ兵が塹壕の上にクリスマスツリーを飾り、「きよしこの夜」を歌い始めると、イギリス兵も応じて歌い出した。やがて両軍が無人地帯に出てきて、タバコやチョコレートを交換し、サッカーの試合までしたという奇跡のような実話。ただし、上層部からは大問題視され、翌年以降は厳しく禁止された。
🥪 偶然が生んだサラエボ事件
皇位継承者を狙った最初の爆弾攻撃は失敗。犯人グループの一人プリンツィプは「今日はもうダメだ」と諦めて、近くのデリ(食料品店)の前にいた。すると、負傷者を見舞うためにルートを変更した大公の車が、偶然プリンツィプのすぐ目の前で停車。プリンツィプは至近距離から大公夫妻を射殺。一人の青年の「偶然の昼食場所」が、世界史を変えた。
🚕 マルヌのタクシー
パリに迫るドイツ軍を食い止めるため、フランス軍はパリ市内のタクシー約600台を徴用して兵士を前線に輸送した。しかも驚くことに、タクシーの運転手には通常料金がきちんと支払われた。「世界初のタクシー軍団」として有名な逸話。
🔫 戦車(タンク)の名前の由来
イギリスが開発したこの新兵器は、あまりの極秘プロジェクトだったため、工場では「移動式の給水タンク(Water Tank)」と偽って製造されていた。その暗号名がそのまま定着し、英語で「Tank(タンク)」と呼ばれるようになった。
🍚 成金の100円札エピソード
大戦景気で大儲けした成金を描いた有名な風刺画がある。停電で暗くなった部屋で、成金が100円札(当時の大金)に火をつけて「どうだ明るくなったろう」と言い放つ絵。実際の入試でもよく出る風刺画なので覚えておくとお得。
🤧 スペイン風邪の誤解
世界中で推定5000万人以上を殺した「スペイン風邪」は、実はスペイン発ではない。参戦国は士気低下を恐れて感染情報を報道規制していたが、中立国スペインだけが自由に報道していたため、「スペインだけで流行している病気」と誤解された。完全なとばっちり。
🕊️ 伝書鳩、英雄になる
無線技術が未熟だった当時、伝書鳩は重要な通信手段だった。アメリカの「シェール・アミ」という鳩は、脚を撃たれ、胸を負傷し、片目を失いながらも、40km先の司令部にメッセージを届け、約200人の兵士の命を救った。フランスから勲章を授与され、剥製は今もスミソニアン博物館に飾られている。
😱 ヒトラーを見逃した男
イギリス兵ヘンリー・タンディは、大戦末期、負傷して逃げるドイツ兵を見つけたが、「武器を持っていない敵は撃たない」と見逃した。そのドイツ兵が、後のアドルフ・ヒトラーだったとされている(真偽は不明)。タンディは第二次世界大戦が始まった後、「あの時撃っておけば…」と後悔したという。
次は第二次世界大戦へ
第二次世界大戦を読む →
