世界恐慌とファシズムの台頭
1929年〜 ― なぜ「また」戦争になったのか?
まず前提:第一次世界大戦の「置き土産」
第一次世界大戦で負けたドイツは、ベルサイユ条約で莫大な賠償金を背負わされた。国民は「こんなの不公平だ!」と不満を溜め込んでいた。
一方、勝った側のイギリス・フランスも戦争で疲弊。アメリカだけが一人勝ちで、世界経済はアメリカ頼みの不安定な状態だった。
👉 第一次世界大戦の「ツケ」が、20年後に爆発する。これが第二次世界大戦の遠因。
世界恐慌(1929年)
1929年、アメリカ・ニューヨークの株式市場で株価が大暴落。
アメリカ経済に依存していた世界中が巻き込まれ、世界恐慌(世界的な大不況)が発生。日本も農村・工業が大打撃を受け、失業者が急増した。
各国の対応 ― ここで「持つ国」と「持たざる国」に分かれる
👉 この「持つ国 vs 持たざる国」の格差が、第二次世界大戦の根本的な原因。
ファシズムの台頭 ― ヒトラー・ムッソリーニ
ドイツではヒトラー率いるナチ党が「ベルサイユ条約を破棄しろ!ドイツを偉大にする!」と訴え、国民の圧倒的支持を獲得。
イタリアではムッソリーニがファシスト党を率いて独裁体制を確立。
日本では軍部が「満州を取れば日本は救われる」と主張し始めた。
👉 経済危機 → 国民の不満 → 「強いリーダー」への期待 → 独裁者の誕生。この流れは世界共通。

タコ先生「ここから日本の話が中心になるよ〜」
軍部の暴走と孤立
1931年〜1941年 ― 止められなくなった日本
満州事変(1931年9月)― 軍が勝手に戦争を始めた
経済困窮の日本にとって、資源豊富な満州は「生命線」だった。
柳条湖事件:関東軍(満州にいた日本軍)が南満州鉄道の線路を自分たちで爆破 → 「中国がやった!」と嘘をつき、軍事行動を開始。
政府は「これ以上広げるな」と命令したが、軍は完全に無視して満州全土を占領。
1932年3月、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)をトップに据えた傀儡国家「満州国」を建国。(実際は日本が操る国)
👉 文民統制(シビリアン・コントロール)の崩壊。軍が政府の命令を無視して勝手に動き、政府がそれを追認してしまった。ここから「軍が暴走しても止められない」空気が生まれる。
五・一五事件(1932年5月)― 首相が暗殺された
首相・犬養毅(いぬかいつよし)は軍の暴走を抑え、国際協調路線をとっていた。
これに反発した海軍の青年将校たちが首相官邸を襲撃。
犬養「話せばわかる」 → 将校「問答無用!」 → 犬養毅、暗殺。
しかも、犯人たちに対して国民から減刑を求める声が多数あがった。「軍人は国を思ってやったんだ」という空気。
👉 テロで首相を殺しても許される空気が生まれた → 政党内閣の慣習が終了。以後、軍人や官僚が首相になる「挙国一致内閣」の時代へ。
国際連盟脱退(1933年3月)― 世界から孤立
国際連盟が満州事変を調査(リットン調査団)。報告書は「日本の侵略」と断定し、満州国を認めなかった。
日本全権代表・松岡洋右(まつおかようすけ)は連盟総会で勧告案が採択されると、席を立って退場。日本は国際連盟を脱退。
👉 「国内の軍部の意向」が「国際社会のルール」より優先された。日本は世界で孤立を深めていく。
二・二六事件(1936年2月)― 軍部独裁の完成
陸軍の青年将校たちが「昭和維新」を掲げ、約1500人の兵を率いてクーデターを起こした。高橋是清蔵相らを殺害し、東京中心部を占拠。
昭和天皇の強い意向で反乱は鎮圧され、首謀者は処罰された。
👉 事件は失敗したが、政治家は「軍に逆らったら殺される」と恐怖。軍の要求を拒否できなくなった。軍部大臣現役武官制が復活し、軍が内閣の生殺与奪を握る体制が完成。
日中戦争(1937年7月〜)― 泥沼の始まり
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん):北京郊外での日中両軍の小競り合いが、全面戦争に発展。
近衛文麿内閣は「これ以上広げるな」と言ったが、軍部の強硬論に押されて大規模派兵を決定。
日本軍は南京を占領したが、蔣介石の国民政府は首都を重慶に移して徹底抗戦。広大な中国大陸で戦線が無秩序に広がり、終わりの見えない「泥沼」に。
👉 長期化する戦争 → 兵士・武器・食料が足りない → 国民生活すべてを戦争に動員する国家総動員法(1938年)の制定へ。
国家総動員法(1938年4月)― 国民生活の自由が消えた
議会の承認なしに、政府が国民の徴用や企業の物資・生産を管理できるようになった。切符制・配給制が始まり、国民生活は完全に戦争体制下に。
👉 国民生活の自由が失われ、国全体が戦争のためだけに動く「後戻りできない」体制が完成。
第二次世界大戦の勃発(1939年9月)― ヨーロッパで戦争開始
ドイツがポーランドに侵攻 → イギリス・フランスがドイツに宣戦布告 → 第二次世界大戦が始まった。
ドイツは「電撃戦」で次々と国を占領。フランスもあっさり降伏。
日独伊三国同盟(1940年9月)― 「仲間」を見つけた日本
ドイツの快進撃を見て、日中戦争で行き詰まっていた日本は「ドイツと組めばアメリカを牽制できる!」と考え、ドイツ・イタリアと軍事同盟を締結。
外務大臣松岡洋右が主導。
👉 アメリカを牽制するつもりが、逆にアメリカの警戒心を最大限に高めてしまった。完全に裏目。
大政翼賛会(1940年10月)― 反対意見ゼロの国
近衛文麿首相のもと、全政党が解散 → 大政翼賛会という一つの組織に統合。政府批判・反対意見は事実上封じられた。
👉 政治的多様性が失われ、戦争拡大を止める力が完全になくなった。
ABCD包囲網と太平洋戦争開戦(1941年12月)― もう後がない
日本が石油などの資源を求めてフランス領インドシナ南部に進駐。
これに対し、アメリカ(A)・イギリス(B)・中国(C)・オランダ(D)が日本への石油輸出を全面禁止(ABCD包囲網)。
東条英機内閣はアメリカと交渉を試みたが、アメリカが提示したハル・ノートは「満州事変以前に戻せ」という内容。日本には到底受け入れられなかった。
👉 1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃。太平洋戦争が始まり、第二次世界大戦が真の「世界大戦」に拡大した。

フグ博士「ここから戦争の後半戦…」
転換と終結
1942年〜1945年 ― 日本の敗北への道

開戦直後 ― 日本の快進撃(1941年12月〜1942年前半)
真珠湾攻撃の成功で、日本は東南アジア・太平洋の広大な地域を次々と占領。マレー半島、フィリピン、インドネシア、ビルマなどを短期間で制圧した。
しかし、この「快進撃」は長く続かなかった。
ミッドウェー海戦の敗北(1942年6月)― 運命の転換点
日本はアメリカ海軍の主力を叩くため、ミッドウェー島攻略を目指した。しかし、暗号を解読されていたアメリカ軍の待ち伏せに遭い、日本海軍は主力空母4隻を一度に失う壊滅的敗北。
👉 太平洋の制海権・制空権を喪失。ここが太平洋戦争のターニングポイント。以後、日本は防戦一方に。
学徒出陣(1943年)― 学生まで戦場へ
戦況悪化で兵力が不足し、それまで徴兵を猶予されていた大学生も戦場に送られるようになった。
サイパン島の陥落(1944年7月)― 本土空襲の始まり
アメリカ軍が日本本土爆撃の拠点確保のため、サイパン島を攻略。激戦の末に陥落。
👉 アメリカ軍のB-29爆撃機が日本本土を直接爆撃可能に。東京大空襲(1945年3月10日)など各地への無差別爆撃が本格化。
沖縄戦(1945年3月〜6月)― 唯一の地上戦
アメリカ軍が沖縄に上陸し、約3ヶ月にわたる激しい地上戦が展開された。民間人を巻き込んだ凄惨な戦闘で、沖縄県民の約4人に1人が犠牲になった。
ヤルタ会談(1945年2月)― ソ連参戦の密約
米・英・ソの首脳(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)が、ドイツ降伏後の処理とソ連の対日参戦について密約。ソ連はドイツ降伏後3ヶ月以内に日本に参戦することを約束した。
ポツダム宣言(1945年7月)― 最後通牒
ドイツが無条件降伏した後、米・英・中の首脳がポツダムで会談 → 日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表。
内容:日本の軍国主義排除、民主主義確立、武装解除、戦争犯罪人処罰など。
日本政府は当初これを「黙殺」した。
広島・長崎への原子爆弾投下(1945年8月6日・9日)
ポツダム宣言を黙殺した日本に対し、アメリカは8月6日に広島に世界初の原子爆弾を投下。想像を絶する破壊力で、一瞬にして街が壊滅した。
ソ連の対日参戦(1945年8月8日)
ヤルタ会談の密約に基づき、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満州などに侵攻した。
長崎への原爆投下(1945年8月9日)
ソ連参戦と同日、アメリカは長崎にも原子爆弾を投下。
ポツダム宣言受諾と終戦(1945年8月14日・15日)
二つの原爆投下とソ連参戦という絶望的状況の中、日本政府はポツダム宣言の受諾を決定。
8月14日に連合国に通告、翌8月15日に天皇のラジオ放送(玉音放送)で国民に終戦を告げた。
👉 第二次世界大戦が終結。約6年間の戦争で、世界全体で5000万人以上が犠牲になった。

ウニくん「戦争は終わった。ここからは復興の話。」
戦後日本の再出発と国際社会への復帰
1945年〜 ― 焼け野原からの復興
GHQによる民主化政策(1945年〜)
日本はアメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、大規模な民主化改革が行われた。
・財閥解体 … 三井・三菱などの巨大企業グループを解体し、経済の民主化を図った
・農地改革 … 地主の土地を小作人に安く売り渡し、自作農を増やした
・日本国憲法制定(1946年公布、1947年施行)
三原則:国民主権・基本的人権の尊重・平和主義
・女性参政権 … 女性が初めて選挙で投票できるようになった
・教育基本法 … 教育の民主化(6・3・3・4制の導入)
冷戦とアメリカの対日政策転換
戦後、アメリカ中心の資本主義陣営 vs ソ連中心の社会主義陣営の対立(冷戦)が激化。アジアでは朝鮮戦争(1950年)が勃発。
👉 アメリカは日本を「非軍事化」の対象から、アジアの「反共の防波堤」として重視するようになった。経済復興を後押しし、再軍備(警察予備隊の創設 → のちの自衛隊)を促した。
サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約(1951年)
日本全権代表吉田茂首相が調印。日本は独立を回復した。ただし、ソ連など社会主義国は調印せず「片面講和」に。
同時に日米安全保障条約を調印。独立後もアメリカ軍が日本に駐留し、日本の安全を守る。
👉 「独立」と「基地提供」のセット。日本は主権を回復したが、アメリカとの軍事同盟のもとに置かれた。
日ソ共同宣言(1956年)― 国連加盟への道
日本とソ連が国交回復、戦争状態の終結を宣言。ソ連の反対がなくなったことで、日本は念願の国際連合加盟(1956年12月)を果たした。
👉 国連加盟により、日本が名実ともに国際社会の一員として復帰。
日韓基本条約(1965年)
アメリカの後押しで日韓の国交が正常化。日本は韓国に経済協力金を提供。両国間の請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」とされた。
日中共同声明(1972年)と日中平和友好条約(1978年)
1972年のニクソン大統領訪中(米中接近)をきっかけに、田中角栄首相が訪中し、日中共同声明に署名して日中国交正常化を実現。
友好の象徴として、中国から日本にジャイアントパンダ(カンカン&ランラン)が贈られた。
1978年には日中平和友好条約で両国の恒久的な平和友好関係を約束。
👉 戦後長らく続いた日中間の異常な関係が終了。日本外交がアメリカ一辺倒から多角的な展開へ。

エビちゃん「お疲れ様!最後にまとめるよ〜」
まとめ:因果でつなぐ歴史ドミノ
世界恐慌から太平洋戦争開戦まで
太平洋戦争から終戦まで
終戦から国際社会復帰まで

チンアナゴ「ここからおまけ!テストには出ないかもだけど面白いよ」
おまけ:知ると面白い話
🎁 「話せばわかる」は本当に言ったのか?
五・一五事件で犬養毅が「話せばわかる」と言ったのは有名だけど、実はこの言葉が本当に言われたかどうかは諸説ある。事件の証言は将校側のものしか残っておらず、犬養側の証言がないため、真相は不明。ただ、犬養毅が対話を重視する政治家だったのは事実。
🎁 ヒトラーは画家志望だった
独裁者ヒトラーは、若い頃はウィーンの美術アカデミーに入学を目指していた画家志望の青年だった。しかし2度の入試に落ち、その後は路上で絵を売って生活していた。もし合格していたら、歴史は変わっていたかもしれない。
🎁 真珠湾攻撃の「宣戦布告の遅れ」
日本は真珠湾攻撃の前にアメリカに宣戦布告する予定だったが、ワシントンの日本大使館での暗号電報の解読・タイピングが間に合わず、攻撃開始後に通告する形になってしまった。これがアメリカで「卑怯な奇襲攻撃」として激しい怒りを買い、「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」のスローガンが生まれた。
🎁 東京大空襲は一晩で10万人
1945年3月10日の東京大空襲では、B-29爆撃機約300機が焼夷弾を投下。木造家屋が密集する下町を中心に、一晩で約10万人が犠牲になった。これは広島の原爆による死者数に匹敵する規模。
🎁 玉音放送を聞いた国民の反応
1945年8月15日の玉音放送(天皇のラジオ放送)は、多くの国民にとって天皇の声を初めて聞く機会だった。しかも音質が悪く、内容がよく聞き取れなかった人も多かった。「日本が勝ったのか負けたのかわからない」という人もいたという。
🎁 パンダ外交 ― カンカンとランラン
1972年の日中国交正常化の際に中国から贈られたジャイアントパンダ「カンカン」と「ランラン」は、上野動物園で大フィーバーを巻き起こした。初日は約5万6000人が来園し、パンダを見るのに2時間待ちだったという。パンダは今でも日中友好のシンボル。
🎁 長崎の原爆は「第二目標」だった
長崎に投下された原爆は、実は当初の目標は北九州の小倉だった。しかし当日、小倉上空が雲に覆われて目視での投下ができず、第二目標の長崎に変更された。天候一つで歴史が変わった瞬間。
第一次世界大戦も読む?
← 第一次世界大戦を読む
